牛久日和
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10 小川芋銭(本名・小川茂吉)は、明治元年2月、東京赤坂溜池にあった牛久藩邸で生まれました。芋銭の父親は牛久藩の大目付だったこともあり、幼い頃から高い教養を受けたと思われます。明治4年廃藩置県により、芋銭の父は農業にて生計をたてることを決意。小川家はみな牛久へと移り住み、農家になりました。このとき芋銭は3歳。その後、牛久学舎(現牛久小学校)で学び、芋銭が11歳のとき再び上京。親戚筋に身を寄せ、13歳になると画学専門校「彰技堂」に入学し4年間洋画を学んだあと、20歳になるまで親戚の小間物屋などで働きながらも絵を描くことに熱中していました。 芋銭が20歳(明治21年)のとき、後に「政界の麒麟児」と言われた尾崎行雄の推挙により朝野新聞社の客員となります。この年画家・浅井忠ら特派に随行し、会津磐梯山大噴火の惨状を、新聞へ掲載するために描いたと言われています。それ以降、芋銭は朝野新聞などに挿絵を描き、収入を得ていました。 しかし、東京で画家として働いていたものの、父親の命により、25歳のとき、画家として成功する夢を抱きつつ、牛久へ戻り農業にはげみます。そして27歳で「きい」と結婚。虚弱体質で農業がつらい芋銭に代わり、妻きいが夫の分まで働いて、芋銭が画業を続けられるようにと支えました。 長男が生まれた翌年の明治36年、読売新聞の懸賞絵画に応募した「新年の意」という作品が第一等当選し、元旦の紙面に掲載されました。また、当時すでに地元のいばらき新聞に依頼され挿絵などを多く描いていました。その他、多くの新聞や雑誌などに挿絵を描いていました。 大正6年、横山大観らに推挙されて日本美術院の同人となり、画業にはげみ、独自の画境を拓きました。こうして、昭和13年12月17日に70年の生涯を閉じるまで、画家として、さまざまな作品を残しています。河童の里うしくUshiku Biyori河童絵の画聖小川芋銭明治42年5月19日国民新聞に掲載された芋銭の挿絵河童の里牛久沼へ

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