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現在、施設の見学はできません。ご了承ください。

 

― 抱樸舎ほうぼくしゃとは ―

『橋のない川』、『向い風』、『夜あけ朝あけ』などの作品で知られる作家の「住井すゑ」氏が夫の「犬田卯いぬたしげる」氏と共に、昭和10年に牛久村城中(現在の牛久市城中町)に移り住み、執筆と農耕自給の生活を送った場所に建てられ、住井すゑが様々な人たちと勉強会を行った場所。

― 抱樸舎の名前の由来について ―

「樸」とは、山から切り出されたまんまのアラ木(原木)のことです。見かけは何のヘンテツもありませんが、うちに多種多様な可能性を備えているから、価値があるのです。
 素朴な心を抱き続けること―「抱樸」は中国古代の思想家・老子の書物に出てくる言葉に基づいています。


抱樸舎遠景


建物近影


「抱樸舎」の文字が刻まれた石碑

 

額になった書「抱樸舎」

 小川芋銭が大正6年に吐血して東大病院へ診察に行かれたときに、牛込の還国寺に下宿していた犬田卯(住井すゑの夫)の所へみえて、寝起きを供にし、芋銭はそこから診察に行っていました。
 芋銭が回復して牛久へ帰るときに、「卯さんお世話になった土産だよ」と書いていただいたものです。

 

橋のない川第8部の原稿

 「橋のない川」第7部を発表(1992年刊)したあと、第8部制作のための準備にかかっていましたが1997年6月16日に95歳で逝去されてしまいました。
 自宅の書斎には、「橋のない川(第8部)」と書かれた原稿が今も住井すゑによって書かれる日を待っています。

 

住井すゑ

 明治35年(1902年)奈良県に生まれる。17歳のときに講談社の婦人記者に応募、採用されるが女性社員差別に抗議して1年で退社してしまう。19歳のときに農民作家の犬田卯と結婚し、農民・婦人運動に関わる。
 1935年、33歳のときに夫の郷里牛久へ移り、執筆活動と農耕で生計を立て、4人の子供と病身の夫を支える。
 1957年7月に夫卯が66歳で逝去。
 1959年1月「橋のない川」が部落問題研究所の雑誌「部落」へ掲載され、1973年までに第1部から第6部までを刊行する。
 1992年、90歳で第7部を刊行。
 1997年6月16日に自宅にて逝去。享年95歳。

 
所在地  茨城県牛久市城中町77
注 意 現在、見学には対応ができないため公開は休止しています。

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