観音寺が創建されたのは信太荘の時代、嘉禄2年(1226年:鎌倉幕府が承久の乱(1221年)をきっかけとして全国に強大な権力を持つようになった時代)とされていますが誰が創建したのかは不明です。

 

 大泳5年(1525年)に土岐原治頼が観音寺の十一面観音の再興を行いました 。
 これは、治頼の統治する場所と、その西方の勢力の小田氏との境界線を提示する意味を持たせるためでした。
 この十一面観音の再興が土岐原氏(後に土岐氏と改姓)と観音寺の最初のつながりのようです。

 

 天正5年(1577年)に土岐治英は土岐越前守と共に観音寺の修復工事を行いました。
 これは、勢力拡大を目論む戦国武将達の合戦が続き軍事的に極めて緊張していた久野の人々に対する信仰的な安心感を持たせる意味もあったと思われます。
 しかし、豊臣秀吉による小田原征伐により、北条氏が滅亡すると、久野の地を統治していた土岐氏も江戸崎、竜ヶ崎の拠点を追われることとなり、観音寺は土岐氏という外護者を失うこととなりました。

 

 内藤清成(徳川家康の命により、検地奉行として江戸崎の地に来た)が慶長12年(1612年)に家来の楠織部と共に観音寺の修復を行っています。
 これは、世情の不安定ななかにあって江戸幕府の権威を知らしめる目的があったと思われます。

 

 宝永3年(1706年)から翌4年にかけて本堂の大修理と仁王門の建立が行われました。(このころの修復費用は大名や領主が一切の資金を出すのではなく、農民たちも少しずつ資金を出して修復費用に当てるようになってたようです。)
 現在の観音寺の本堂の大部分はこの再建工事によるものです。さらに、この工事の際に出た古材を利用して、仁王門も建立されました。

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