むかし、根本村(現在の新利根村根本)に忠五郎ちゅうごろうというやさしい若者がいました。
 ある日、土浦でむしろを売っての帰り道、女化ヶ原おなばけがはらにさしかかると一人の猟師が眠っている大きな白ぎつねを射ようとしていたので、忠五郎が大きなせきばらいをしてきつねを逃がしてあげました。「ひとの仕事を邪魔しやがって」と猟師は怒りましたが、筵の売上全部を出して謝りました。
 その夜のこと、忠五郎の家に若い娘と老人がたずねてきました。「奥州から鎌倉へ行く途中、道に迷って困っています。どうか一晩泊めて下さい。」忠五郎は二人を泊めてあげました。


「東林寺に眠る
栗林義長」
(牛久市立図書館刊)

 翌朝、忠五郎が目をさますと、下男げなん路銀ろぎん(お金)を持ち逃げされてしまったと娘が泣いていました。 そこで娘は忠五郎の家にしばらく居ることになりました。
 八重やえという この娘は、この世のものとは思われない美しさで気立てのやさしい働き者で、やがて忠五郎の嫁になりました。
 幸せな家庭に8年の月日が流れ、つる亀次郎かめじろう竹松たけまつという三人の子供に恵まれました。

 ある秋の日、八重は竹松の添寝そいねをしているうちに寝入ってしまったところを遊びから帰ってきた子供たちが見ると、母親に大きな尻尾しっぽが出ているではありませんか。
 「大変だ〜、おっかあがきつねになっちゃった〜!」 と腰を抜かさんばかりに驚き、父親のところへとんでいきました。
 忠五郎が急いで帰ってみると八重の姿はなく、
 「みどり子の母はと問わば女化の原に泣く泣く伏すと答えよ」
という書き置きだけがありました。


絵 宮川秀男

 忠五郎が三人の子供を連れて、きつねの足跡を追ってくると、森の中に穴があり、そこはあの女化ヶ原でした。
 「おっ母!出て来ておくれ。」と涙ながらに呼びかけました。すると中から
 「こんな姿になって、もう会うことは出来ません。」と声がしました。
 「どんな姿でも驚かないから出て来ておくれ!」
 「ほんとうに驚かないでくださいね。」と一匹のきつねが穴から飛び出して、子供たちの顔をジーッと見つめ、
 「私がおまえたちの守り神になります。」と泣きながら走り去りました。
 この穴は、女化稲荷の北方300m位の所にあり、「お穴」としてまつられています。


「お穴」の入口にある鳥居

祠に祀られてあるお稲荷様
 

 その後、忠五郎は、一生懸命働いて三人の子供を育てました。末っ子の竹松はすぐれた若者となり、みやこに上って公家くげに仕えることになりました。
 都で妻を迎えた竹松に、たくましい男の子が生まれ、千代松ちよまつという名をつけました。 千代松は神童しんどうと言われるようになり、特に兵学へいがく柳水軒白雲齋りゅうすいけんはくうんさいに学び、柳水軒義長りゅうすいけんよしながという名前をいただきました。
 その頃は、戦国の時代で、世の中は乱れ、戦いが絶えませんでした。
 義長が、父の故郷に帰ってみると、そこでは北条ほうじょう氏が佐竹さたけ氏と勢力を争っていました。
 義長は、牛久の城主岡見宗治おかみむねはるの武将、柏田の栗林左京亮くりばやしさきょうのすけの門をたたき、すっかり気に入られて家来になりました。
 義長は、その後たびたびの合戦を巧みな策で勝利に導き、ますます信頼されて左京亮の婿養子になり、栗林義長と名乗りました。
 やがて下妻の多賀谷政経たがやまさつねの大軍が攻めてくるというしらせがありました。
 北条氏尭ほうじょううじたかは武将たちを集めて軍議をを開いたとき、岡見宗治に、「そちの家来に栗林義長という者がおろう。その者には、神霊が乗り移っているとか聞いている。これを総大将にしたいと思う。」と言いました。
 殿様からこれを聞いた義長は、たいへん驚き、一度はことわりましたが、御大将おんたいしょう直々の命令に引き受ける決心をしました。
 水上の戦いでは負けしらずの多賀谷の水軍に勝つためには、かつて柳水軒先生から学んだ火攻めの計しかないと考え、ひそかに戦いの準備をしました。
 戦いの前夜、義長は
 「どうか明日の風向きを教えて下さい。」
と、神に祈ると闇の中にボーッときつねのような顔をした老婆が浮かび上がり、
 「明日の風は南だよ。」
と言うとスーッと消えてしまいました。
 戦いの日がきました。戦場は水海道と福岡の間の小貝川です。多賀谷の水軍は数百そうの 舟で川面を埋め、かね、太鼓をならしながら攻め下ってきました。
 義長は風を背にして合図の狼煙のろしを上げさせ一斉に襲いかかりました。 火矢ひやを雨のように射かけると盾板に火がつき、そこへ油壺を投げ込んだので、敵は大混乱に陥りました。
 この大勝利で、義長の活躍は関東一円に知れ渡り、北条氏尭公から沢山の褒美ほうびをいただきましたが、「これも皆の奮戦のお陰だ。」と言って諸将や部下に分け与えましたので義長の評判はますます高くなりました。
 義長は、戦いが上手なだけではありませんでした。小野川にせきを作り、用水掘を掘り、堤防を築くなどして農民を助けました。
 また飢饉ききんのときには、館の兵糧倉ひょうろうぐらを開いて民衆を救いましたので仏のようなお館様と慕われました。
 義長は、たびたびの合戦で危機を救われ、たくさんの手柄を立てることが出来たのは、おばあさんのお加護かごであると思い、これからも人々を災いから守り、幸運を祈るために女化ヶ原のお穴の近くに稲荷神社を建立しました。

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